猪野が高専卒業を期に寮を出るらしい。彼が任務に出掛けるまでの間、そして自分の担当の術師がやってくるまでの間、待機室にて、審査通ったって連絡来て〜と嬉しそうに話す年下の学生を見て、伊地知はなんだかほのぼのとした気持ちになった。
季節はじきに春。卒業の時期までもういくばくもない。自分にもこういう時期があったんだなあと年寄りくさい感想までもが浮かぶ。
「んで今家具とかどうしようかなって。色々雑誌見てんですけど、あれもこれもってなってなかなか決まんないんですよね!」
「必需品以外は引っ越してからゆっくり決めていけばいいと思いますよ。急いで適当に決めると結局買い換えることになりますし」
最近は買うより捨てるほうが大変なのでその辺りも考えて、と年上らしく、自分が一人暮らしを始めたときのことを思い出しながらアドバイスをする。ほうほうと頷いて聞いてくれるからまた喋りやすかった。
「何、猪野引っ越すの」
「あきらサン!」
話に入ってきたのは伊地知の担当している術師、一つ上の先輩だった。猪野はなぜかこの先輩に結構懐いており、あからさまにテンションを上げている。
「そうなんすよ〜。近く来たら遊びに来てくださいね!」
「はいはい。あ、そっか、ちょうどいいや」
「え?」
「これ、引っ越し祝いにあげる」
「ええ!?」
ごそごそと持っていた鞄の中を漁ると、おもむろに猪野に向かって何かを差し出した。カバー付きの、おそらく文庫本だ。本人の嗜好を限りなく無視していて、かついらないものを押し付けたように見えなくもないが、猪野は素直に受け取っている。
「本……ッスか?」
「うん。おもしろいよ。引っ越しするならぴったりだと思う」
「へえ〜……ありがとうございます!!大事にします!!」
「いや読んでくれたらいいから。伊地知、行こうか」
「あ、はい」
そういえばそろそろ出ないと間に合わない。「読んだら感想言うんで!!」と元気いっぱいな猪野の声を後ろに聞きながら、二人で待機室を出る。
「何の本をあげたんですか?」
「『残穢』」
「……」
短く返った答えを聞いて、聞かなきゃ良かったなと伊地知は思った。