仕事から帰ってきてヘトヘトのあきらが玄関のドアを開けると、そこには綾部がいた。
花柄の玄関マットの上で正座をして、きょとんと見開いた目であきらを見つめていたが、その表情はどちらかというとあきらの心境に近い。しかし疲れがピークに達し、表情筋すら動かすのが惜しいあきらは無表情を貫いた。
沈黙ののち、小さく開いた口が言葉を紡ぐ。
「あきらさん、おかえりなさい。お風呂にしますか、ご飯にしますか」
まるで新妻のような台詞を恥ずかしげもなく吐く綾部はれっきとした男だ。年齢と顔つきのせいでそうは見られないが、話せば声の低さで知れる。
いつもなら苦笑と共に突っ込みくらい入れたかもしれないあきらだったが、それは心の内に留め置き、「…風呂で」とだけ呟く。
素っ気ない様子を気にするでもなく、綾部はこくんと頷き、これまた新妻がするように、あきらの手から鞄を取り上げた。
「………」
湯をはってありますと、どこか誇らしげに言った綾部の言葉通り、湯舟にはたっぷりと淡い水色の湯がはってあった。……のだが。
「ぬるい!」
熱い湯を期待して足を入れたあきらが、思わずといった調子で叫ぶ。
ぬるい。とにかくぬるい。
体温と同じか以下か、それくらいであると思われた。長く入れば風邪をひきそうだ。
あきらは溜息をつくと、湯舟に差し入れた足を引っ込め、重い足取りで浴室のドアを開けた。
出て行ったリビングで、あきらを待っていたのは、戻りの早いあきらに目をぱちくりさせる綾部と夕飯である。
白米に焦げて崩れただし巻き、それに海苔。並ぶのは質素なものであったが、何もないよりはずっとよかった。それに、仕事の関係で食事時間がどうしても遅れてしまうあきらにとっては、体重維持のためにもこれくらいがむしろいいだろう。
「ご飯です。どうぞ」
「………いただきます」
あきらが意を決して、恐る恐る口に運んだだし巻きは、砂糖と塩が交じったおかしな味がした。
「…綾部。」
「はい」
「こんなのどこで知ったの」
「てれびで見ました。いけませんでしたか?」
「いや…駄目じゃないんだけどなんていうかね……」
好意からくる失敗を、どうやったら傷付けずに知らせられるのだろう。
考えた末、苦い顔のあきらが選んだのは、首を傾げる綾部の口にだし巻きをねじ込むことであった。