※学生時代
背中に赤いランドセルを背負い、一緒に帰ろう、とにこにこ話しかけてきた義理の姉を無視して、少年はその横を走り抜けた。姉の方が背は高かったが、彼には高い身体能力がある。
「こら!恵ー!」
声が追いかけてきたのはほんの少しの間で、担任には通るなと言われている路地を通り抜けた後には気配もなくなっていた。どうせ帰るところなんてひとつしかないのだ、きっと諦めただろう。
そう思って、小学一年生としては大人びた様子で、恵と呼ばれた少年は溜息を吐く。
やる気のない足取りでゆっくりと歩いた。
そうして、ちょうど公園の横を通りかかった時である。
「伏黒恵くんだね」
高校生くらいの年の女が声を掛けてきた。
黒い服を着ていた。あまり見かけない形だが、どこかの学校の制服のようにも見える。
世間的に見ればまだまだ子供なのだろう。しかし恵にとっては、彼女は見上げないと顔が見えないような大人で、面識がないにも関わらず自分の名前を呼んだことを考えると、警戒すべき不審者とさえ言えた。
何が楽しいのかにこにこと笑顔を浮かべる不審者から目を離さずに、恵は一歩後退る。
「……あんただれだ」
「……え、これ警戒されてる?」
「答えろ」
威嚇するような声に彼女が怯むことはなく、ただ不思議そうに首を傾げて口を開いた。
「うーん」
「…………」
「……まあいいか。えーと、私は禪院あきら。君のお父さんの親戚」
「……聞いたことない」
「そりゃあ言わないでしょうね。でもさ」
あきらが徐に、宙に手を翳した。午後の日光を浴びて、白い手が近くの壁に黒い影を作る。
犬の影絵。
あきらはそれを吠えるように動かした。
「ほら」と楽しげに恵を見る。
「――おそろい」
あきらの足下に現れた犬の形の式神を見て、恵は目を見開いて固まっていた。あきらはにっこり笑って、大人しく側に控える自分の式神の頭を優しく撫でる。
「ちょっとお話ししよっか」
そう言われた時、恵の中にはもう、先ほどまでの警戒心はなくなっていた。
**
禪院あきら、と改めてもう一度彼女は名乗った。
恵の父親との関係は小さい頃に一二度会ったことがある、とそれくらいのものらしい。あきらはそこのところを少しぼかしたが、別にそこまで興味があるわけでもなかったので、深く突っ込むことはしなかった。
それよりも。
「大蛇」
人気のない公園のベンチに座って、あきらは手を組み、影を作る。もし普通の人間が見たとしても、暇な高校生が近所の小学生に影絵を教えている、以上の印象は抱かないだろう。
けれど恵には見えた。
大蛇といいながらも小さく細い蛇が、あきらの影から這い出でて、白い腕に巻き付くのが見えていた。
「……小さい」
「小さくしてんの」
みんな呪力が元だからね、大きさは自分で調整できるよとあきらは機嫌良く言う。
ちろちろと舌を出している式神を、じっと見つめている恵を見て、ふふ、とあきらが声を立てて笑った。
「そんなに面白がってくれるんなら、来てよかった」
「べつに面白いわけじゃない」
「そう?まあいいけど」
少し間があった。二人の間を、ちょうどよく風が通り抜ける。
髪が乱れるのには気を留めず、十種影法術って言うんだよ、とあきらは唐突に言った。
「禪院の術式の中でも、割と強いものを私や君は継いでいる」
「…………」
「だから多分、君のお父さんの目論見は上手く行くのね。君はうちに――禪院本家に引き取られることになる」
「?どういう……」
恵は眉を顰めてあきらを見たけれど、あきらはこちらを見ていない。ベンチに座って、真っ直ぐ前を見ている。
「うちの家は陰湿だぞぉ」
「…………」
「術式ないといじめられるし。術式あっても生まれ次第でぐだぐだ言われるし。せめて血筋か術式かどっちかにすればいいのにねえ」
あきらはそこでふいと恵の方を向いて、にっこり笑った。
「ねえ恵くん、君はどうしたい?」
「だからどういう……」
「あのかわいいお姉ちゃんと一緒に二人で生きていくか、禪院に引き取られて、自分の術式を拠り所に生きるか」
津美紀のことも知っていたのか。
驚いて黙り込む恵に、あきらは要領を得ない問いを続けた。
「どちらにせよ、君はその才能を使って生きていくしかないけどさ。好きな方を選んでよ、それくらいは協力できる」
「…………、」
言われている意味がよく飲み込めない。下を向いて視線をさ迷わせていると、頭にぽんと何かが乗った。
まあわかんないよね、と苦笑して、そのまま慰めるように、恵の小さな頭を撫でた。
「じゃあ質問を変えます。恵くん」
「…………」
「津美紀ちゃんと私、どっちが好き?」
「……はぁ?」
思わず気の抜けた声が出た。あきらは愉快そうに笑っている。
「まあ津美紀ちゃんに決まってるよね。ということで!」
「あんたホントに何なんだ!?」
「色々手を回しておくから、安心してよ」
できない。何一つできない。
じっとりと自分を見る恵の視線を何と勘違いしたのか、あきらはぐっと親指を立てて口を開いた。
「物事めちゃくちゃにするにはうってつけの奴がいるから、大丈夫大丈夫。悪いようにはしないって」
「待て」
「よーし忙しくなるぞ!」
じゃあね恵!また会おう!とごまかすように捲し立てて、あきらは勢いよく立ち上がる。ポカンと口を開けた恵をその場に残したまま、走り出した黒い制服の背中があっという間に小さくなって、そのうちに消えてしまった。