「名前、なんていうの?」
優しげな笑顔で尋ねられた言葉に下を向いたのは、最近よく自分の名前を人にからかわれるようになったからだった。
それを自分への警戒ととったのか、高遠あきらと名乗った女性は困ったように笑って首を傾げた。その後ろから、冷蔵庫の扉を開ける音がする。続いて声がかかった。
「恵だよ。めーぐーみ」
なかなか家に戻ってこない父親を、恵は幼いながらも鋭い目つきで睨みつける。睨まれた男はハッと鼻で笑って「かわいくねーガキ」と悪態をついた。
何故かあきらがキュッと眉間に皺を寄せ、肩越しに振り返って男を睨んだ。
「……自分の子供にそんなこと言わないで」
恵の代わりに言い返した。さっき恵に向けた気遣うようなものではない、厳しい声だった。
冷蔵庫に入っていた缶ビールをあけながら、男はにやりと口端を歪める。
「どうだかな。俺の子じゃねえかも」
「どうみてもあんたの子でしょ。そっくりだし」
タチの悪い冗談をぴしゃりと撥ね付けて、あきらが顔を正面に戻した。
眉間の皺をすっかり緩め、「これから時々来るけど、よろしくね」とやはり優しく笑いかける。
「…………」
恵はとりあえず下を向いて、小さく一つ頷いた。
**
宣言通り、あきらは恵の住んでいるアパートによく顔を出すようになった。
大抵週末に、近くのスーパーで買い込んできた食料をひっさげてあきらはやってくる。一週間分の作り置きを数時間かけてやりきって、恵にどう食べるかを言い渡す。
それから一緒に後かたづけをして、いつもは見ないテレビなんかを見て、一緒に夕飯を食べるのだ。
恵だけでも、もう一人いたとしても、あきらのやることは大して変わらなかった。
時々出張先で買ってきたというおみやげを嬉しそうに渡してきたりもした。
食べ物以外に関するあきらの土産のセンスは正直なところ悪い。妙な置物が家に増えるのを見ては、居合わせた父親がバカにして、言い合いが始まることもあった。
金切り声も物が壊れる音もしない喧嘩を、自分の父親ができることに恵は随分驚いたものだ。あきらといるときの父親が、あまり嫌いではなくなっている自分に気づいた時も。
「あ、駄目だ。卵足りないや」
冷蔵庫をのぞき込み、持参した買い物袋の中を探してあきらが呟いている。
やっちゃったなあと眉尻を下げるあきらに、恵は「買ってくる」と進言した。あきらがおやという顔で恵を見た。
「大丈夫?一人でいける?」
「いける」
恵はこの年頃にしてはしっかりした子供だ。
あきらはそれをわかっていたので、しばらくうーんと唸ってから、「じゃあお願いしよう」と結論付けた。
近くに置いていた自分の鞄を引き寄せて、財布を取り出す。千円札を抜き取ると、はいと恵に渡した。
「卵と、あとなんかおやつとか、恵の食べたいもの買ってきていいからね」
「別にない」
「子供が遠慮しない。気をつけて行っておいで。変な人がいたら術式使ってでも逃げるんだよ」
「……ん」
「恵はほんとにいい子だねぇ」
あきらがにこにこと微笑んだ。白い手が自分の頭に向かって伸びてくるのを、恵はおとなしく受け入れた。
あきらはよく恵の頭を撫でた。
その度に胸の辺りがじんわりと暖かくなる。あきらにそうされると、恵はいつも決まって照れ臭い気持ちになった。
**
あきらに尋ねたことがある。
皿洗いをしているときだ。あきらが上機嫌で皿を洗い、はいと恵に渡す。踏み台の上に乗った恵はそれを受け取って、丁寧に拭いていく。
父親は今日もいなかった。どこで何をしているのかわからない。知っているかと聞いたらまあ今日は競馬かなあ、とあきらは答えて、それから苦笑してたまに仕事もしてるけどねと続けた。
仕方がないなあという顔だった。
実際父親は子供である恵から見ても仕方がない人間で、それでもそばにいるのがあきらという人だったから、恵は思ったのだ。
「あきらさんって、アイツと結婚するのか」
「ええ!?」
あきらは大げさなくらいに驚いた。
大きく目を見開いて、恵を見る。しかし自分を見ることもなく黙々と皿を拭く恵の態度に、何か感じることがあったのか、ううん、と唸って正面を向いた。
一旦止まった手を再び動かしながら、問いかける。
「恵はさ」
「……」
「私がお母さんになってもいいの?」
こくり、と一つ頷いた。
相手があの男だということだけが気になるけれど、それでも。
恵は考えた。
週に数回だけやってくるあきらが、毎日ここに帰ってきて。
恵は毎日こうして手伝いをする。
父親はやっぱり滅多に帰ってこないかもしれないが、それでも二人で温かい食事をして、テレビを見て、あきらは恵を残してどこかに帰ることもなく、一緒に眠る。
家族になるとはきっと、そういうことに他ならない。
「……そっか」
ふふ、とあきらは嬉しそうに笑った。
「恵のお母さんになれるなら、いいかもなあ」
夢見るような、幸せそうな声だった。
**
あきらが来ない。
週末になっても、その次の週末が来ても、一月経っても、あきらはやって来なかった。
作り置きはとっくになくなったから、恵はそれらが入っていたタッパーを一人で綺麗に洗った。乾いたものを食器棚に入れた。
あきらは来ない。連絡もない。
「くそっ」
夜遅くに、恵は父親の悪態で目を覚ました。ガタガタと物にぶつかる音が玄関先からしている。
久しぶりに帰ってきたと思ったら、酔っているらしい。溜息を吐きながら起き上がり、水くらいは差しだしてやろうと恵は布団から出た。
玄関のあたりに、父親は倒れ込んでいた。
「……水」
「…………あァ、恵か」
差し出したコップを、父親は受け取らなかった。恵とよく似た、けれども大人の顔で、口元をにいと持ち上げて「死んだぞ」と言う。
「……は?」
「あきらのやつ、死んだんだと。呪霊に食われて」
弱かったからなアイツ、とあろうことか笑った。こぼれ落ちんばかりに目を見開く息子をからかうように、オマエ、懐いてたのになあと続ける。
やっと理解が追いついた次の瞬間には、コップの水を父親にかけていた。
「何すんだクソガキ!」
父親の怒声から、恵は逃げた。追いかけてはこなかった。
さっきまでくるまっていた布団の中に逃げ込んで、頭の上まで引き上げる。
――あきらが死んだ。
『恵はいい子だねぇ』
『私がお母さんになってもいいの?』
高遠あきらが死んだ。
それは父親が津美紀とその母親を連れてくる、二ヶ月前のことだった。