※学生時代
「…………」
昨日買っておいたプリン。
黒の極太マジックでしっかりと名前を書いて寮共用の冷蔵庫の隅にひっそり隠しておいたちょっと高めのプリン、今日実習から帰ったら食べようと楽しみにしていたお気に入りのケーキ屋さんのプリンが、ない。
「悪りぃ。腹減ったから食べた」
冷蔵庫を開けたまま固まっているあきらに向かって今度買ってきてやるよと付け加えたひとつ上の先輩は、台詞に反して悪びれた態度も見せず、ぺろっと舌まで出して見せた。
もしかして煽っているのだろうか。
ギリ、と拳を握ったあきらは、それでも平静を装って、喉の奥から「そうですか」と返事を絞り出す。
「あれ、怒んねーの」
「怒りませんよ。今度ちゃんと買ってきてくださいね、同じものを」
念を押しつつ踵を返す。
ああだのおおだの気の抜けたような声を後ろに聞きながら、自室に向かって歩き出した。
「あきらじゃん。帰ってたの」
ポケットから取り出した携帯電話を真顔で弄りながら歩いていると、前方から声を掛けられた。顔を上げるとそこにはさっきとは別の先輩がいて、あきらはとりあえず手を止めて会釈をする。
「家入先輩、お疲れ様です」
「そっちもお疲れ〜。早かったね」
「結構近場だったので」
ふぅん、と興味があるのかないのかわからない返事を家入はした。とことこそばまで歩いてきたと思ったら、手に持ったままのあきらの携帯を覗き込む。
画面には連絡先が表示されている。
ただし名前がバカとなっているから、誰のことだかわからない。家入が首を傾げて問うた。
「……何コレ?誰?」
「私のプリンを食べた人です」
「五条じゃん。アハハ」
「知ってたなら止めてください」
あきらの軽い抗議にも飄々として、家入は「めんどいからヤダ」とだけ答えた。
**
そういえばそんなことがあった。
すっかり忘れていた。
「あきら?」
にこにこ笑う先輩はあきらの携帯電話を親指と人差し指で摘み、ブラブラと揺らしている。
最新機種のスライド式の携帯は今まさに着信を知らせて震え、売り文句通りの大きな画面に単語を映し出していた。
「これ何?」
「私の携帯です」
あきらはしれっと見たままを答える。
笑顔は維持したまま、五条の顔にピキッと青筋が立った。
「……それは見ればわかるっつの。俺が聞いてんのはこの、今表示されてる、バカって何ってことだよ」
「手違いです、何かの」
「どんな手違いで尊敬する先輩の登録がバカなんてもんになんだよこのバカ」
「人のプリンを勝手に食べる手違いがあるならこういった手違いもあり得ます」
「あぁ?オマエまだ根に持ってんの?ちゃんと買ってやったろ」
「もしかしてあの、コンビニのプリンのこと言ってますか?」
「…………」
「…………」
「バカ」「陰険」と綺麗に罵倒が重なった。
正直半分本気で忘れていたのだ。
後輩使いの荒い五条からは頻繁に電話だのメールだのが来るので、その度バカという単語は目にしていたのだが、不都合もないし本人を表す言葉として特に間違ってはいないしで違和感を覚えなくなっていた。
大体名前なんて所詮記号だし、判別さえできれば支障だってない。
今だって、もしあきらがこの共用スペースで携帯を見失い、たまたま居合わせた五条が電話を鳴らして、しかも結局携帯が五条の足元に落ちていたという偶然がなければ、バレていなかったに違いない。
五条悟のことをこの名前で登録していることを知った人間は家入の他にも数人いたが、人望がないのかなんなのか、みんな笑いを堪えるか目を逸らすかで本人に伝える様子もなかった。
だからこれはただ運が悪かっただけだ。いわば不幸な事故なのだ。
「……ちゃんと戻しとけよ」
どこか飄々とした様子の後輩をじっとりと睨みつけながら、五条が言う。あきらは乱暴に投げられた携帯を危なげなくキャッチすると、
「嫌です」
きっぱり答え、五条に背を向けて走り出した。
「あきら!」
食べ物の恨みは怖いのだ。ちょっとくらい思い知ってみるといい。