Skip to content

夏油との邂逅

変な生き物が歩いていた。

呪術師たる夏油の目には、呪霊といういびつな生き物が常に見えているので、変な物が視えることそれ自体は不思議ではない。
だがしかし、それは奇妙だった。

犬のように見える。
いや、正しくは、犬のぬいぐるみのように見える、だ。
美々子や菜々子が見れば、あるいはかわいいと喜ぶかもしれない。
ずんぐりむっくりとした、普通の犬とはほど遠いフォルムに、小さな短い尻尾を楽しげに振って、その犬はぼてぼて歩いている。
呪力を感じた。

「あっ、いたあ」

疲れたような呆れたような声が聞こえ、夏油は視線をそちらへやった。
どこにでもいそうな、美々子や菜々子とちょうど同じ年頃の少女だった。少女は自分が見られているとは思っていないようで、もう、と少し怒ってぬいぐるみのようなそれに近づき、手を伸ばして捕まえようとした。

――きゃん!

「あっ、コラ!」

何かの遊びだとでも思ったのか、犬もどきが楽しそうに一声鳴いて、少女の手を見た目に似合わぬ素早さで避ける。こちらの方に逃げて来たので、夏油は目の前を通り過ぎかけたその首根っこを、ひょいと掴んだ。

「あっ…………えっ?ええ?」
「やあ、初めまして。ちょっといいかな」

きゃん、ぐるるると、捕らえられた犬もどきが警戒のようなことをした。
 

**
 

突然現れた袈裟姿の夏油を不審がることもなく、少女は高遠あきらと名乗った。ベンチに並んで座り、夏油が自販機で買ってやった炭酸のジュースを飲みながら、ぐるる、とまだ警戒した様子の、多分他の通行人には見えていないだろう犬もどきを叱る。

「すみません、普段はこんなんじゃないんですけど」
「いや、いいよ。気にしないさ」

申し訳なさそうに謝るあきらに笑顔を向ける。
夏油さん本当に見えるんですね、とあきらが感心したような声を出した。

「もちろん見えるよ。君と同じ、呪術師だからね」
「……」

あきらは特に何もわかっていない顔で、頭の上にいくつか疑問符を浮かべた。
あきらはどうも、呪術師の家系の生まれではないらしい。自分にだけ見える犬のような何かをペットのように扱って、小さい頃から今までを過ごしてきたのだという。
まあ、呪術師の血など、今となってはどこに流れているかわからないものだ。数は少ないが、一般出の呪術師も今の呪術界にはそれなりに存在する。夏油はふと、懐かしい後輩の姿を思い出した。
夏油はあきらと、その腕に抱かれて迫力のない目つきでこちらを睨みつける犬もどきを見た。

「……多分、君のは犬神だろうね」
「いぬがみ」
「そう。と言っても私が知っているのは、そんな姿をしてはいなかったけれど……」
「そんなすがた」

あきらが犬もどきの前足の下あたりを両手で掴み、目の前に持ち上げた。だらんと伸びる手足が短い。

「たくさんいるんだろう」
「時々……」
「君の意志にはなかなか従わず、勝手ばかりする」
「それは、はい、困ってます」

きゃん、と持ち上げられて浮いたままの犬神が鳴く。
犬神とはそういうものだ。主の心の奥底にだけ従い、制御が効かない、あるいは難しい。犬神憑きも元は式神使いの一族だったのだろう。ただ自身の力への理解が中途半端で、操縦もできなかったから、強い感情のままに被害を生み、疎まれた。
夏油はこれまでのあきらの生活を思って、少しの憐れみを覚えた。

「苦労しただろう」

気遣うような優しい声をかけられたあきらは、え、と目を丸くする。続けてうーんと首を傾げた。

「面白いですよ」
「……面白い?」
「はい。この子たち、他の人には見えないので、確かに私は大変なんですけど」

学校で出てきて机の上に座るから黒板が見えなくなったりとか。友達の足におしっこかけるような仕草をするから慌てて追っ払ったりとか、とあきらは宙を見て、思い出すように言った。

「でもなんか、テスト中に教壇でぐうすか寝てたりするし。顔が面白いから、見てるといろいろどうでもよくなってくるし」

ねー、とあきらが犬神に笑いかける。夏油は思わず吹き出した。

「なっ、なんですか」
「ふふ、いや、……君は随分恵まれた環境で生活してきたようだ」

感情の乱れに敏感に反応して、他者を攻撃するはずの犬神の主が、どうしてこんなに平和に過ごしているのか。

「大抵の危険は犬神が祓って来たんだろうね。見たところ二級呪霊くらいなら難なく食えるはずだ」
「にきゅうじゅれい?」
「こういう」

生き物のことだよ、と肩の上に出した呪霊を見て、あきらはひゃあと驚いた。その瞬間、あきらが抱えていたのとは別の、一つ目の犬神がどこからか現れて、ばくっと夏油の使役する呪霊に噛みついた。そのままばくばくと勢いよく食べ続ける。

「うわあ!すみません!」
「構わないよ」

まだもぐもぐと呪霊の残骸を咀嚼している一つ目の方の犬神の首根っこを掴み、あきらが頭を下げた。

「連れていこうかと思ったけれど、その必要はないらしい」
「へ?」
「君がこれからも平穏に過ごせるように、願っているよ」

じゃあね、と笑顔を浮かべた夏油が立ち上がった。
言われたことがよく飲み込めていないのか、はあ、と答えたあきらを置いて歩き始める。

「あ、そうだ」

途中で振り返り、夏油が言った。

「もし目隠しをした、白髪長身の男を見かけたら、迷わず逃げた方がいい。君の平穏を乱すだろうから」

いやそんなの怪しすぎて言われなくても逃げます、と言うと夏油は声を上げて笑う。
次の瞬間強い風が吹いて、あきらは思わず目を閉じる。再び目を開けた時には、袈裟を着た男の姿はどこにもなかった。