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呪胎戴天

「――闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
 

伊地知がそう口にすると、遙か上空から闇がトプリと溢れ、瞬く間に滑り落ちてきた。実習の折りに何度か見たそれをあきらは不思議だなあと思いながら見上げている。伏黒が虎杖のために解説を挟んだ。
帳と呼ばれるそれは結界のひとつなのだそうだ。あきらたちを人の目から隠し、呪力の弱い人間が、出られなくなるのか入れなくなるのか、どちらだったか。
ご武運を、と送り出されたのは東京にある少年院で、あきらたち四人は連れだって、辺りを見回しながらその敷地を進む。
扉があった。
伏黒が手を組んで玉犬を呼びだしたのと、あきらの足下から白い毛玉が飛び出してきたのは同時だった。
伏黒の側に大人しく控えた玉犬とは対照的に、あきらの犬神は扉の前に陣取り、ウウウとこちらを威嚇している。入るなとでも言っているようだった。

「どうしたのよ」
「わ、わかんない」

釘崎があきらの犬神とあきら自身に訝しげな視線を向けた。
同級生のなんとかしろというような視線が痛い。あきらは慌てながら、珍しくぎゃんぎゃん吠えて抵抗する犬神を無理矢理に抱き上げた。

初めて見た犬神の盛大な拒絶を見て頭の上に疑問符を浮かべている三人と異なり、伏黒は口に出さないながら、中に潜む呪霊が特級に相当するものであるという確信を強くしている。
犬神はあきらの本能みたいなものだ。その主人であるあきらより随分鋭い。
心の奥底で、あきらは無意識に危険を悟っているのだ。

「……行くぞ」

しかし、それでも、行かないという選択肢は四人にはなかった。
伏黒の言葉を合図に、表情を引き締めた一年生たちは呪いの待ち受ける場所へと足を踏み入れた。

中は異様なつくりをしていた。

太いパイプやよくわからない建物が無秩序に犇めいて、悪い夢を見ているようだ。
入ってきた扉さえ手品のように消えてしまって、みんなで慌てる。伏黒が玉犬を従えて「大丈夫だ」と言った。

「コイツが出入り口の匂いを覚えてる」
「わしゃしゃしゃしゃしゃ!!」
「ジャーキーよ!ありったけのジャーキーを持ってきて!」

盛大に褒め讃えられている玉犬と、腕の中で未だに不満げな表情をして唸っている犬神を見比べて、あきらは小さく笑う。あまり褒められたりすることのない犬神の頭を、優しくひと撫でしてやった。
 

**
 

あきらはなにもわかっていなかった。

呪術高専に来て、自分の周りをずっとうろちょろしていたぬいぐるみみたいな生き物が、自身の能力に由来するものだということを知った。呪いと言われる奇妙な生き物をたくさん見て、ただのぬいぐるみだと思っていた犬たちが、それらに獰猛に襲いかかるところを見た。

それが何だと言うのだ。

どれだけ犬神が呪いを祓おうと、所詮それはあきらの意思ではない。

虎杖とも釘崎とも、もちろん伏黒とも違う。
あきら一人きりが、何もわかっていなかった。

「ここ、どこ……」

真っ暗で何も見えない。
さっきまで目の前で揉めていたはずの虎杖も伏黒も、遺体に動揺していたあきらとは異なり、二人の諍いを止めようとした釘崎も、どこにもいなかった。周りには闇ばかりがある。
腕の中で犬神が、きゃんと鳴いた。元気づけようとしているらしくぺろぺろと小さな舌であきらの手を舐めた。

「大丈夫、み、みんなを探そう」

この子も匂いとかわかるのかな、と犬神に期待をかけたところで、その犬神がいきなりぐるると唸りだした。
目の前の虚空を見て、きゃんきゃんと子犬の声で吠えたてる。
あきらは何も見えない。見えないけれど、ただ背が凍るような恐怖を覚えた。

「なに……?」

声が震える。
目の前の闇がとんでもなく怖かった。心の底から恐ろしいと思った。

――きゃん。

腕の中にいるものとは少し違う高い声が増える。見れば足下にもう一匹、どこからともなく犬神が現れてあきらの側に立っている。

――きゃん。

もう一匹。今度はあきらの前に。
きゃん。また一匹。絶え間なく鳴く犬の声がどんどん増えて、暗闇の中に犇めいた。

『あきらってさ、心の底から怒ったことある?』

あきらはいつか聞いた、五条の言葉を思い出す。

『じゃあ、心の底から怖いと思ったこと』

あの時、五条はどういう意図でそんな問いかけをしたのだろう。
あきらは、あきらは今、とても怖い。

「いやだ――来ないで」

暗闇の奥には何も見えやしないのに、あきらは無意識に口走る。

きゃん。

犬神たちは今や群れほどにもなって、あきらの足下に控えていた。主人の命令を今か今かと待ちわびている。
白い群を見下ろして、震える唇をゆっくりと動かした。

「おねがい」

それだけで十分だった。
一斉に走り出す犬神たちを、どこか他人事のようにあきらは見ていた。

「…………だめだ」

体がだるくて仕方ない。
半ば気絶に近い形で、あきらはパタンとその場に崩れ落ちた。