ヨシヱが婿を取ることになった。
ずっと前からわかっていたことだった。
代々屋島の頭領に仕える従者の家系に生まれたヨシヱには、その役割を果たす義務があり、血を繋ぐ責任というものがある。
婿入りするのは満吉という多少は知った狸で、彼がそこそこ稀有な力の持ち主であることもあきらは知っていた。この縁組みはきっと彼女にふさわしく、喜ばしいことなのだろう。
それでも、いいの、と問うた声は少し震えてしまっていて、それが知られていなければいいと思う。
「──満吉さんはとても優しい方です。良いご縁に恵まれたと思っています」
いつもの通り、眩しいくらいまっすぐな瞳であきらを見据えて、ヨシヱは答える。あきらはなんでもなさそうに、そう、と頷いた。それがその時の精一杯だった。
「……お前なあ」
ヨシヱの家を出て自宅に戻り、あきらはそのまま荷物をまとめて屋島を出た。ちょうど東京でうさんくさい探偵事務所を立ち上げたばかりだった隠神のもとへ押し掛ける。ゴロゴロと大荷物を引いて、むすっとした顔で現れたあきらを、隠神は呆れたような顔で出迎えた。
何があったのかは聞かれなかった。
それでも人の感情の機微にするどいこの男のことだ、何か察するものがあったのだろう。
ヨシヱの婚儀のために屋島に戻るというその時にも、何か言いたそうな目はしていたが、その視線を完全に無視して妙な吸血鬼とゲームに興じるあきらを、無理矢理引きずっていこうとはしなかった。
あきらはヨシヱのことを考えないように努力した。
居候代だといって回されてくる仕事をこなすことで日々をごまかした。ああ今頃ヨシヱはあの穏和な男の奥方として、私のことなんか忘れて幸せに日々を過ごしているんだろうなと思ったり、真面目な彼女が妻となったのだからと張り切っている姿を想像してしまったときは酒を飲むようにした。タバコも覚えた。ついでにゲームは上達したものの、吸血鬼にはどうやっても勝てずにいつもボコボコに負かされた。
そんなある日のことだった。
「あきら、お前な、そろそろ一度屋島に帰れ」
「は?」
「ヨシヱが子供産んだってさ。このまま時間が過ぎれば過ぎるほど、帰りづらくなるぞ」
「……」
呆れ顔の隠神をしばらくじっと睨みつけて、あきらはしばらく黙り込む。溜めて溜めて、
「……………………嫌だ」
と答えた瞬間から、記憶がない。
気づいた時には裏屋島に入る直前で、あきらはとうとう観念した。
少し恨み言を言ってみたものの、ここに連れてきた張本人ときたら全く悪びれておらず、「まあ少し話してみろよ」とのんきなことを言う。
あきらはため息を吐いた。
思えば何も言わずに、生まれて初めてこんなに長期間里を空けてしまった。いきなり姿を消して、結婚の儀にも顔を見せず言葉さえ贈らなかったあきらのことを、ヨシヱはどう思っているだろう。怒っているだろうか、それともどうでもいいのだろうか。
産後まだそんなに時間の経っていないヨシヱは、家で静養しているらしい。まずは出産に何の問題もなかったことにほっと息をつく。生命力の強い怪物といえども、命を生み出すときは、同じく命がかかるものだから。
今行ってもいいものかわからないとごねると、隠神はいいからいいからとあきらを促した。実際家を訪ねると、その辺の話はとっくに通っていたらしく、あきらはすぐに中に通された。
見慣れた御神籤家の、けれどヨシヱの部屋ではなかったはずの場所。きれいに手入れをされた庭がよく見えるその和室で、今のヨシヱは寝起きをしているようだ。
「あきら」
部屋に通されるなり黙り込んで下を向いたあきらを、穏やかでまっすぐな声が呼ぶ。
「元気そうで安心しました。まったく、連絡のひとつも寄越さないんですから」
「……うん、ごめん」
「いいえ。何があったのかはわかりませんが、必要なことだったのでしょう」
「……」
「貴女は意味のないことはしない方ですもの」
ふふ、と微笑むヨシヱの傍らでは、生まれてからそう経っていない、まだ変化もできないようなちいさな狸が、すうすうと寝息を立てている。
あきらの喉が震えた。
「ヨシヱ」
「はい?」
「結婚、おめでとう。あと子供も、無事生まれてよかった」
思ったよりもすんなりと出た言葉を聞いて、ヨシヱは少し驚いた顔をする。それから嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「あきら、せっかくですから、抱いてやってくださいな」
「え、いいよ」
「さあさあ」
「いいって……ああもう」
自分たちの間に、なにか蟠りがあったことは、ヨシヱも何となく察しているのだろう。だからそれがおそらく解けた今が、彼女は嬉しいらしかった。
にこにこと押しの強いヨシヱに負けて、まだ眠っている仔狸の、小さな体をおそるおそる受け取る。
暖かい。くたっとしている。鼻も口も爪も、何もかもが小さい。
「……よく寝てる」
「ええ。よく寝てよくお乳を飲む、とても良い子です」
「……」
──この子が。
その時不意に押し寄せてきた感情がなんだったのか、あきらにはわからなかった。どうしようもなく胸のあたりが熱くなったかと思うと、ただぼろぼろと涙が頬を伝う。
「まあ、あきらったら!」
声もなく、盛大に泣きだした親友の姿を見て、ヨシヱはとても幸せそうに笑っていた。