そうだ家を出よう、とあきらは思った。
月に一度と定められた義務のもと、婚約者と顔を合わせていた時のことだ。
「高専出たらすぐ祝言だって」
二人掛けのソファーの上で悠々と寝そべりながら、五条はつまらなさそうに言った。目は右手でいじる携帯のディスプレイにだけ向けられていて、こちらを見もしない。
迷惑な話だよねと同意を求められ、あきらは読んでいた本から顔を上げて、そうだねと適当に答えた。すぐにまた活字に視線を落とすと、苛立っているらしい五条の舌打ちが聞こえる。
もうちょっと面白い反応を期待されていたのだろう。
もちろんそんな余裕は今のあきらにはなく、頭の中には思考が渦巻いていて、いつものように脅えるどころではなかった。
――逃げるなら海外がいい。
国内だと近すぎる。
実家から、五条の家から高専から、あきらは自分を取り巻く何もかもから逃げたかった。
もちろん実現したとして、家にかける迷惑は計り知れないが、そんなものはどうでもいい。元々家のためと言って、娘を差し出すような両親なのだ。向こうが抱いていない情を捧げるほど、あきらは殊勝な人間ではない。
「お互い面倒な家に産まれたよなぁ」
溜息混じりに五条が言う。あきらは逃亡の算段をつけながら、心の底からの同意を込めて頷いた。
家出を決行したのは、高専の卒業の少し前、まだ寒さの残る季節だった。
高専で手に入れた、お金である程度頼みを聞いてくれる人脈を辿って、あきらは新天地へのチケットを手に入れた。
怪しまれないよう少しずつ引き出しては手元に貯めていた軍資金を持ち、数年間世話になった部屋を簡単に片付けて、使っていた携帯は机の上に置いた。
不自然に思われないよう、小さくまとめた荷物を持って部屋を出る。
扉を閉める少し前、机に置いた携帯が震えた気配がしたが、あきらは振り返らなかった。
表向きは逆らわず、両親の言うままに毎日を過ごしていたあきらの企ては、結果的に驚くほど上手くいった。
家族も親族も友人でさえも、誰一人あきらの家出なんて疑っていなかった。
半日ほどのフライトを経て、初めて外国の地を踏んだ時には拍子抜けしたくらいだ。
空港に降り立って、吸い込んだ空気は乾燥していた。初めてちゃんと息をしたような気になって、あの時あきらは泣いた気がする。
潤んだ瞳で見上げた空の、抜けるような青さと高さを、きっと一生忘れることはないだろう。
**
「お客様?どうされました?」
気遣わしげな女性の声であきらはやっと我に返った。
そんなはずはない。そうだそんなはずはないと自分に言い聞かせてもう一度正面を見ると、やっぱりその男はすぐそこの、ゲートの向こうに立っていて、あきらを見て気さくに片手を上げている。
あきらは荷物を待っていたのも忘れ、声をかけてくれた職員に勢いよく顔を向けて、「あの」と混乱気味の声を出した。
「今すぐボリビアに行くにはどうしたらいいですか?ブラジルでもいいんですけど」
「は、はあ……」
突然真面目な顔で突拍子もないことを言い出すお客様に、彼女は混乱の表情を浮かべた。当然だろう。今さっきのフライトで日本に帰ってきただろう女が言うような言葉ではないし、まず尋ねる先を間違っている。
「あきらー」
気安く名前を呼ばれ、あきらは五年ぶりに見る元婚約者を睨みつけた。
「なんなの!」
大体、どうやってここを嗅ぎ付けたのだ。
この五年間、術式という生まれ持った特技を活かして、特に怖いものもなく賭博やら人助けやらで世界中を渡り歩いたあきらは、今日という日に日本に戻ることを誰にも言っていなかった。
しかもここは東京ではない。大きいとはいえ地方の空港を、用心して選んだのだ。
なのに五条はそこに立っている。あきらを待ち構えていたとしか思えない。
「五年ぶりに会った婚約者にその態度はなくない?」
「うるさい、どうやって………………待って」
婚約者?元じゃなくて?とあきらがひきつった顔で尋ねると、五条はうんと、昔と寸分も変わらない笑顔を浮かべる。「まだ破棄してないから」と続けた。
あきらが絶句する。
「ちなみに何でここがわかったかって言うと、いつかのあきらと同じだよ。金で大抵のことをどうにかしてくれる知り合いなら、僕にも何人かいるからね」
「…………ど」
「ボリビアでもブラジルでも、あきらが行きたいなら連れてってあげる。ただし――」
にこーっと五条が笑いかけてきた。遠い昔、あきらを泣くまでからかって遊んでいた頃と同じ顔だ。
何年経っても変わることなく、顔だけは一等綺麗なのだ、五条悟という男は。
「――新婚旅行としてだけど」
開いた口が塞がらず立ち尽くすあきらに向かい、空港の職員はとても遠慮がちに、大丈夫ですかと問い掛けた。