秀次は、私のことをいつでもあきら姉さんと呼んだ。ただ姉さんと呼ばれた時に振り向くのは、私ではなく、私よりずっと優しくて、穏やかで、綺麗で、みんなに好かれていた、今はいないあの人だった。
私たちの姉さんは、とても美しい人だった。性格も容姿も能力も、私は小さいときから何一つかなわなくて、それを仕方ないとも思えるような、そんな人だった。だからたった一人の弟が、私よりも姉さんに懐いているのも、少し寂しいとは思えど、別によかったのだ。私たちは幸せな姉弟だった。姉さんが死ぬまでは。
近界民が初めて三門市を襲ったあの日、私は姉さんと買い物に出かけていた。久しぶりに秀次抜きの二人で出かけて、貰ったばかりのお小遣いで服を買ったり、姉さんがケーキをごちそうしてくれたりして。街を歩いて、そろそろ帰ろうか、おみやげは何にしようか、と話していた時だった。
空に、ぽっかりと黒い穴が開いた。
嘘みたいだった。這いだしてきた化け物が、私たちに向かってくる。知らない人がなぎ倒されて、食べられて、切りつけられて。私たちはほとんど動けなかった。人間のものに似た歯がびっしりと生えた口が目の前に迫って、私と姉さんは、あっという間に化け物に飲み込まれた。
──大丈夫か!
私は気を失っていた。揺り起こされ、目をうっすらとあけたら、光が飛び込んできてまぶしさに目を細めた。体の節々が痛んだ。私に声をかけてくれた人は、ロングコートを身に纏っていた。肩には何かのマークがついている。剣のようなものも持っていた。化け物から助けてくれたのだ、とすぐにわかった。そして姉さんのことを思い出して、あたりを見回す。私以外にも助けられた人はたくさんいたようだった。でも、その中に姉さんはいない。
──ねえさん、私の姉さんを知りませんか。髪が長くて、マフラーをつけた……一緒に飲み込まれたんです。
私が言うと、目の前のその人は、痛ましげな表情を浮かべて、ゆっくりと首を横に振った。
ぽつり。俄に降り出した雨が、私の頬を打った。
忍田本部長から呼び出しを受けたのは通常任務を終えた夕方のことだった。深刻な表情で下された命令は一つだ。迅に力を貸す。玉狛に入隊したという、本部長の旧友の息子のために、城戸司令が差し向けるであろう精鋭部隊と戦うこと。
当然のように頷いて部屋を出ると、同じく呼び出された嵐山は気遣わしげに私を見て、いいのか、と問うた。
「なにが」
「向こうには、おそらく三輪がいるぞ」
「それがどうしたの?」
「どうって……」
嵐山が言葉を探して黙り込む。今夜相手にすると思われるのは、遠征から帰ってきた太刀川隊、冬島隊、風間隊──そして三輪隊、その中の数名ずつ、最悪全員。錚々たる面子である。しかし嵐山が言っているのは、戦力のことではもちろんない。私も同じ、三輪という名字を持っている、そのことだ。姉弟で争うことになってもいいのか、ということである。弟妹を溺愛している嵐山からすれば、それは心配すべきことなのだろう。何か言いたげな視線がうるさい。
「……関係ないよ。私は上司の命令に従う、秀次も司令の命令に従う、それだけ」
「でも、三輪はきっと納得しない」
「それも関係ないね。……嵐山んとこと違って、うちはドライなの」
嵐山は納得しない。だが何か重ねて言うこともない。
私と秀次の関係が複雑なのは、嵐山も知るところだった。
「あきら」
「なによ」
「……お前はそれで、本当にいいのか?」
嵐山が問う。私は、答えなかった。
姉さんの遺体はすぐに見つかった。瓦礫の傍で、他の知らない人たちのそれと一緒に、姉さんは転がっていた。いつもバラ色に色づいていた頬は真っ白で、ぽっかりと穴の開いた、胸だけが真っ赤だった。座り込んで手を伸ばし、触れた体は固くて、冷たかった。
──ねえさん。
背後から声がして、振り向く。振り向く間に駆け寄ってきて、秀次は、まっすぐ姉さんの前にやってきた。私のことなんて見えていないようだった。
──ねえさん、ねえさん、うそだ。おきて。おきてくれ。
動かない姉さんに向かって、秀次はひたすら語りかけた。私はその横顔を、じっと見ていた。
化け物の詳細について知ったのはしばらくしてからだった。あいつらはトリオンという、よくわからないエネルギーを集めるために、異世界からこちらにやってきたのだという。人は誰しもトリオン器官を身に持っていて、その能力には個人差があり、トリオン量が多い人間は生け捕りに、少ない人間は、トリオン器官だけ取っていく。
つまり私は、トリオン量が多くて。姉さんは逆に少なかったのだと。
皮肉だった。何一つ姉さんに勝っているところなどないと思っていたのに、私はこの一点でだけ、姉さんより優れていたのだ。そのせいで私は生き、姉さんは死んだ。
私はまだ狙われる危険性があるからといって、ボーダーに保護されることになり、そしてそのまま戦闘員として入隊した。恨みというほどの激しさは持てなかったけれど、戦える力がこの身にあるなら、やるべきだと思った。姉さんは戻ってこない。けれど、姉さんのような人をもう出さないことなら、私にもできるかもしれないから。幸い狙われるほどの才能はあったから、派閥を聞かれるくらいの立場にもついた。
忍田派を選んだのは、いつの間にかボーダーに入り、城戸派に属していた秀次と、同じところにいたくなかったからだ。
夜の中、嵐山隊とともに地に降りて、迅の傍に立つ。敵として秀次と向かいあう。黒い瞳は驚愕の色を映していた。
「……あきら姉さん、どうして」
秀次は未だに私をあきら姉さんと呼ぶ。姉さんはもういないのに。秀次が姉さんと呼ぶのは、いまはもういない、私の姉さんだけだ。
姉さんが死ななければ、トリオン兵が私たちを襲わなければ、姉さんのトリオン能力が高ければ、こんなことにはならなかった。姉さんの方が好かれていたって、選ばれていたって、別によかった。姉さんが生きていれば。こんなみじめな思いをすることもきっとなかったのに。
私はずっと、あの日の秀次のことが忘れられない。
秀次はなんにも言わないけれど、姉さんにすがって泣くあの背中に、責められている気がしてならない。近界民への憎しみを隠さない秀次を見る度に思う。姉さんでなく、死んだのが私だったら、秀次はこんなにも、激しい憎しみを抱いたろうか。私が、私が──
──私が死ねばよかった。
「どうしてあきら姉さんまで、近界民を庇うんだ!」
「……あんたの考えを、私に押しつけるのはやめてよ」
私は弧月を構える。秀次に牙を剥く。それは大義のためでもなんでもない、ただ自分のやりきれない気持ちを、ごまかすためのものだった。