「ねえ七海」
隣を歩いていた灰原が、ふと首を傾げて口を開いた。
「なんですか」
「なんか首のとこ赤いけど、虫刺され?」
塗り薬持ってこようか、と付け加えた友人は、場所を示してか自分の首筋をトントンと指で叩いた。
その場所に虫刺されという単語、それだけで一つ思い当たることがあり、七海はついその場でビシッと固まる。七海の妙な反応に驚いた灰原が、七海!?と大きな声を出した。
「何かあった!?」
「灰原、それはね」
「夏油さん!」
最悪だ。
どうしてこんな時に限って、いつも忙しいはずのこの先輩と鉢合わせるのだろう。
突然割り込んだ声は笑いを含んでいて、明らかにこの状況を面白がっている。
夏油は灰原の肩をポンと叩いて、優しげに笑ったかと思うと「虫刺されじゃないよ」と余計なことを言った。
「えっ?そうなんですか」
「……」
「灰原はお子ちゃまだな〜」
「あ、五条さん」
また一人増えた。
後ろからにゅっと腕がのび、七海の肩に乗った。一方的に組まれた肩に、ぐっと重量がかかる。七海の顔の真横で、五条がニィッと笑っていた。
「お子ちゃまな灰原に先輩が教えてやるよ。これはな」
七海の首筋の一点を無遠慮に突いて、五条が口を開いた。
「キ」
「五条さん」
それを途中で遮って、ずっと黙り込んでいた七海が名前を呼んだ。割り込まれた五条は怒るでもなく、ただニヤニヤ笑って、何、と尋ねる。
「高遠先輩がどこにいるかご存知ですか」
「あきらならさっき教室で硝子とだべってたけど」
「ありがとうございます」
礼を言うなり五条の腕を振り払い、眉間に皺を寄せた七海が三人を残して早足で歩き出した。
残された五条と夏油が、ヒューとか怒っても逆効果だと思うよとか思い思いに勝手なことを言って囃し立てている。何のことですか!?と灰原が先輩二人に尋ねる声が耳に入り、七海はいたたまれない気持ちになった。
**
そういえばそんなこともあったなと、十年も昔のことを七海は鏡を見ながら思い出した。首筋には一点、赤黒い内出血のあとがあり、溜息が出る。
シャツを着てネクタイを締めても隠れ切らないそれを諦めて、リビングに戻った。
「それ、隠さないの」
ソファに腰掛けたあきらが、コーヒーを飲みながら面白そうに笑う。視線は七海の首筋にあり、何のことを言われているのかはすぐに分かった。
「見られたところで困りませんから」
「え〜」
「何ですか」
「怒らないの」
「怒ったらやめるんですか」
やめないけどぉ、とあきらは不服そうに言った。
「昔はかわいかったのに」
つけたの気付いたら顔真っ赤にして怒りに来てさあ、と懐かしむように目を閉じて続けた。多分先ほど、鏡の前で七海が思い出したのと同じ出来事について、あきらは想いを馳せている。
当時の七海はまだ若くて、自分の反応があきらを面白がらせていることにも気付いていなかった。
あの騒動だって結局、あきらは悪びれることもなく、教室の窓から飛び降りて逃げ果せたのだったか。キスマークだって、やっと消えた頃には新しいものをつけられた。
どれだけ注意しているつもりでも、行為に一度夢中になってしまえば、意味を成さなかったのだ。
「……今の私では不満ですか」
「いや?顔真っ赤にして怒ってる七海が久々に見たいなってだけ」
「そんな子供みたいなことはしません」
「だろうねぇ」
ほんとかっこいい大人になっちゃって困るよと、あの頃と同じ面白がるような声であきらは笑った。