実家の方でごたごたがあった。と、風の噂で知った。
呪術師の世界とは狭いもので、とうに出た家の話でもどこからともなく聞こえてくる。そんなものだからあきらの現状についてもしっかり把握されているのだろうし、こうなった以上今まで通り放っておいてくれるとも限らない。
男尊女卑の根深い家のことだ、あきらが一端の呪術師として活躍していたとしても関係なく、必要になれば連れ戻して女としての役割を強いるだろう。
もちろんそんなのは真っ平ごめんだ。今更家に戻るつもりなどない。となれば必然、自衛の手段を考えなければいけなかった。
「伊地知ってさあ、結婚を考えてる相手もしくは付き合ってる相手とかいる?」
「は、はい?」
「いないんなら婚約してよ、私と」
「ええっ!?」
驚いた伊地知が素っ頓狂な声を上げた。それでも運転に影響がでないのだからすばらしい。頼みごとをする相手としては適任だろうと適当なことを後部座席でくつろぎながら考えて、あきらはうんうんと一人で頷いた。
「なんでそこで伊地知?」
僕は?と意味のわからないことを言い出す隣に顔をしかめた。なぜそこで自分が候補に入ると思うのか、あきらにはよくわからない。
「五条は嫌」
「ひどくない?」
「フリだとしても、相手は選びたい」
「ひどくない?」
ひどくない、と念を押し、伊地知に再び水を向ける。いるのかいないのか、と聞けばいないですけど、と弱々しい返答があった。
「フリだとしてもさー、伊地知にも選ぶ権利があるよ。ねえ?」
「ああ?」
「ひえっ、高遠さん落ち着いてください。五条さんもやめてくださいよ……」
後輩の困り切った声で矛をおさめ、あきらは大きくため息を吐いた。「もういいよ、わかった」と案外大人しく、話を終わりにするつもりのようだ。
無茶なお願いだとは本人もわかっているのだ。いつものように無理矢理うんと言わせるのはさすがに悪い。
あきらは頬杖をつき、窓の外を眺めた。車内にはなんとなく沈黙が満ちている。
「そうだ」
しばらくそうしていると、不意に五条が何かを思いついたような明るい声を出した。明らかに期待していない顔で振り向いたあきらに、五条はいつもの適当な笑みで言った。
「あきら、それさあ、七海に頼んでみなよ」
「はあ?」
「あいつも最近色々言われてるみたいだからさ。駄目元で」
「駄目元ねえ……」
あきらは半目になって、まあ考えとくわと返した。あのクソがつくほど真面目な後輩が、こういう戯れ言に付き合ってくれる気が全くしなかったからである。
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「構いませんよ」
クソがつくほど真面目な後輩、もとい七海建人にあっさりそう言われて、あきらは驚きのあまり一歩二歩と後退りをした。七海はそんなあきらの不審な行動を見て、眉を顰める。
「なにかおかしなことでも?」
「いや、なにかっていうか……七海がこういうことに頷くとは思ってなかったというか……」
困惑気味のあきらに対して、七海の方は平然としている。よっぽど縁談とか上の嫌味に辟易としていたのだろうか。
あきらの申し出も周囲からの圧力も両方クソだと見なした上で、前者の方がまだマシだと結論づけたとか、そんなところだろうか。
何にしても頷いてくれる相手が見つかったのはいいことだった。これで多少時間稼ぎにもなるし、実家への牽制にもなるはずだ。
助かるわ、とほっと息を吐いたあきらに、「ですが」と不穏な逆説が入った。
「な、なに」
「婚約では根本的解決にならないのでは?」
七海が言う。まあその辺は、とお茶を濁そうとしたあきらに、冷静な声が続けた。
「結婚では駄目ですか」
「…………はい!?」
「さすがに既に結婚までしている人間を、呼び戻すことはしないでしょう」
「え、いや……そうかもしれないけど」
そこまでお願いするつもりはなかったあきらが狼狽える。対して七海の方は淀みなく正論に聞こえることを言っていた。ひょっとして慌てている自分がおかしいんだろうか、と考えてしまうくらいに、普通の顔だった。
学生時代から今まで、五条や他の同期なんかと一緒になって、からかい遊び続けてきた、いつもの七海建人の顔だ。
「そういうことでいいですか」
混乱している中もう一押しされて、あきらははい、と疑問符を浮かべながらも頷いた。
**
仮にも結婚してしまったのだから、そういうことにはなるわけだ。
最初の考えとは随分ずれてしまった結果として、横たわる自分の体に覆い被さる後輩がいる。
あきらは何か未だに状況が掴めていない気がして、半ば夢でも見ているような気持ちで、鎖骨のあたりにくちづける七海を見ていた。
「なんですか、あきらさん」
視線に気づいた七海があきらを見下ろす。色素の薄い瞳には確かに欲情の色が点っていて、あきらはやっぱり不思議な気持ちになる。
「……あのさあ、その呼び方止めない?」
七海はあきらのことを、高遠さん、ではなくあきらさんと呼ぶようになった。七海の口からその音が出る度、あきらは居心地が悪いような、ムズムズした気持ちになる。
名前なんて不躾に呼び捨てる奴もいるのに、どうして七海に呼ばれた時にだけこんなに胸が騒ぐのか、あきらはまだよくわかっていない。
「いいよ今まで通りで」
「……結婚したんですよ」
「わかってるけどさー」
「あきらさん」
慣れてください、と言って、七海の大きな手があきらの頬を撫でる。くすぐったい。
触れるだけの口づけを七海はした。
「……ねえ」
「はい」
「…………もしかして七海、私のこと好きなの?」
「……」
しばらくの沈黙の後、今気づいたんですか、と七海が言った。小さく微笑んだ口元に驚いている間に、もう一度唇を落とされて、そこからはもう駄目だった。