「いじちさん」
ひらがなの、甘えた声だった。
あきらの意図は明らかだ。伊地知だって、それなりに経験のある大人の男だし、女性が男の脚の上に跨がってねだるのが何かくらいは言われずともわかる。わかっているから、冷や汗がだらだらと流れた。
「待ってください、高遠さん」
「なんで?」
焦った伊地知の気も知らず、あきらは首を傾げた。ボタンをいくつか外したせいで、服が中途半端にはだけている、ほどよく筋肉のついたやわらかな足の感触が、スーツ越しに伝わってくる。
どうか反応してくれるな、と伊地知はいるかもわからない神様とやらに祈っている。
「高遠さん」
伊地知は真剣な顔で、このままでは更に近づいてきかねないあきらの両肩を掴んだ。いいですか、と諭すように言った。
「あなたは子供です」
「子供じゃないよ」
「子供ですし、学生でしょう」
あきらは少し考えて、「じゃあ高専やめる」と気楽に言う。
「…………」
「それならいい?」
どうしてそんな思考になるのだろう。どうしてこんなことになったのだろう。
懐かれているとは思っていたし、それを嬉しくも思っていた。けれどまさかそれが恋愛感情だとは、伊地知は今の今まで思っていなかったのだ。
きっかけになるようなことをした覚えもない。
なのにあきらはわざわざ伊地知の家までやってきて、相談があると部屋に上がり込んだ。
ミルクと砂糖をたっぷりと入れて作ったカフェラテを、ぐぐっと飲み干してから伊地知に近づいてきた。よいしょと伊地知の脚の上に乗った。驚いて固まる伊地知に、甘えた声で顔を寄せてきた。
すき、と短く言った。
「駄目です」
「…………」
伊地知はきっぱりと告げる。あきらの目をしっかりと見た。
「あなた自身がどう思っていようと、私にとってあなたは守るべき子供です。その、そういう対象にはなりません」
恋愛対象という言葉を使うのは気が引けたから、伊地知は言葉を濁した。わかってください、と真剣な目で訴えて、掴んだ肩を離す。
きっとあきらは何か勘違いしているのだ。
伊地知は伊地知なりに彼女を大切に思っている。楽しいことばかりとは言えない学生生活かもしれないが、その中で仲間たちと絆を深めて、かけがえのない時間を過ごしてほしかった。かつての自分がそうしたように。
恋なんか、何もわざわざ年の離れた自分を相手に選ぶことはない。
「……」
あきらが目を伏せて、また何か考えている。
「伊地知さん」
「なんですか」
顔を上げたあきらの瞳は澄んでいた。伊地知は少したじろいだ。
「大人になるまで待っててくれる?」
「へ?」
「帰る」
あきらはあっさりと伊地知の上から退いた。ごちそうさまでした、と頭を下げて、すたすた歩き廊下に通じる扉に手をかける。
結局あきらは一度も振り向かなかった。
「…………ど、どうしたら」
誰もいなくなった自分の部屋で、伊地知は呆然と呟いた。
あれは絶対に諦めていない。
僕の教え子を誑かしたんだって?と怖い上司に責められる未来が、すぐそこに見えている気がした。