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硝子と

当然と言えばそうなのだが、あきらの私物は全部処分済みだった。お気に入りの小物も居心地のいいように揃えた家具も、洋服も、果ては口座すらもなくなっている。あきらが持っているのは着ていた制服ととうに解約された携帯電話、呪具、それから念のために持っていた小銭入れくらいだ。とても生活はできない。
当時既に身寄りがなかったのは、ややこしい説明をしなくていい反面、後ろ盾がないという欠点になった。

「これ、あきらの口座」
「へ?」
「お金は適当に入れといたから」

当面の間使うようにと案内された寮の一室、最低限の家具を前に溜息を吐いたあきらに、五条が大きめの封筒を放る。中身を見ると、通帳、判子、それからキャッシュカードが入っている。あきらは目を丸くして五条を見た。

「暗証番号は誕生日四桁ね。適当に変えといて」
「五条……」
「ん?」
「ありがと」

素直に礼を言ったあきらを見て五条が笑った。「トイチだよ」と言われたけれど、それがおそらく冗談だということを、あきらは知っている。
 

**
 

高専に戻ってきた翌日、私服の一着もないあきらは、家入に同行してもらい、都心へ買い物に出かけた。

東京の街は何もかもが変わっていた。

都会は田舎と違って、余計に時間の流れが速い。知った建物がなく、知らない建物がある。街を行く同年代だろう若者たちのファッションだって異なっていた。
世界が自分の知っているより、鮮やかになっているように見えた。

「まあ技術関係が十年飛んでるからな」

そりゃあ驚くだろう、と言って家入がカップに口を付ける。机の上には先ほどあきらが契約してきた新しい携帯が置かれていた。あきらは難しい顔でそれをつついている。

「ボタンないの不便じゃない?」

不満そうにあきらが言う。契約の際、店頭で未だに細々と生き残る、馴染みのあるガラケーに逃げようとしたあきらを止めて、家入は最新機種を購入させた。もちろんスマートフォンだ。文字打つのとかさあ、とぶつぶつ言うあきらに向かって口を開く。

「すぐに慣れる。若いんだし」
「……同じ年だし」
「昔はな」

変な会話だった。もし聞いている人間がいれば何のことだと首を傾げるに違いない。
最近はメールというものをしないと聞いたあきらがうそー!?と声を上げる。代わりに使われているアプリをインストールさせて、使い方を教えてやった。
 

**
 

それなりの量の買い物を済ませる。
そろそろ帰ろうかと話しかけると、家入はあきらを連れて、ケーキ屋を訪れた。あきらが好きなクリームの乗ったケーキをひとつ、クリームのないチーズケーキをひとつ買う。
そこからちょっといいスーパーに出かけて、日本酒を瓶で買った。ジュースも一本。つまみを適当に。

「付き合えよ」

と大人になった友人に笑いかけられ、あきらは少し不思議に思いながらも、うん、と頷いた。

 

「ねー硝子ー」
「んん」

家入は机に突っ伏している。その向かいに座り、ちびちびと買ってもらったジュースを飲みながら、素面のあきらが話しかける。家入は返事なのか唸りなのか判別のつかない声を出した。溜息を吐く。
初めて見るくらい、家入は酔っぱらっていた。十一年前は揃って未成年だろうというツッコミはしてはいけない。あきら達は悪い学生だったのだ。
当然あきらも酒の味くらい知っていた。

「私も飲みたいなー」

家入をつつきながらあきらがねだった。けれど半分寝ている家入は、「ダメ」と短く突っぱねる。

「なんで」
「子供だから」
「……」

昔は同じ年だったのに。同じ教室で学んで、時には煙草をわけてもらい、酒の入ったグラスで時々乾杯した仲間だったのに。
五条や家入にとっては十一年かもしれないが、あきらにとっては昨日のことみたいなものなのだ。一日経ったらいきなり、同級生たちがみんな大人のような顔をして、あきらばかりを子供扱いする。当然面白くはない。
あきらがむっと黙り込む。睨んでみても家入は顔を上げないから、何の効果もない。

「……別に好きでこうなったんじゃないし」
「わかってるよ」

案外会話は通じている。
ひょっとすると顔を伏せているだけで、そんなに酔っているわけではないのかもしれない。しかし家入は頑なに顔を上げないので、あきらははあと溜息を吐いた。
よいしょと立ち上がり、布団を持ってくると家入の肩にかけてやる。

「じゃあもう寝よ」
「ん」
「気が向いたらベッド行きなよ」
「ん……」

一応返事をする家入を置いて立ち上がった。
簡単にまとめていたゴミの袋を持って、部屋の端に置いておく。出る前に電気を消すべきかどうか迷っていると、後ろからあきら、と名前を呼ばれた。

「ん?」
「おかえり」
「……」

あきらは高専を出たとき、彼女になんと言ったかをまだ覚えている。昨日のことだからだ。
でも家入の方も、ひょっとして覚えているのかもしれないと、その時思った。

「…………ただいま」

あきらの言葉に応えるように、家入はひらひらと手を振った。あきらは無言で扉を開けて、結局電気は消さずに部屋を出る。

「あー……」

部屋の外で呟いて、頭をがしがしと掻いた。こみ上げてきた罪悪感の行き場は、今のところどこにも見当たらない。